主観性
2011-05-27


物語は相変わらず、時間の流れも外部の視点もなく、きわめて主観的です。『ガラスの仮面』なら練習の過程でブラック・スワンたる何かを獲得していくプロセスを丹念に描いてくれるでしょうが、ニナの主観ではそうではありません。印象的な出来事だけが次々と記憶されていき、出来事のひとつひとつは、客観的に見れば幼く未熟で確固たる結末を持ちません。え、そんなことで思いつめなくても…と言ってあげたくなります。落ち着いて考えてみればもっと他に選択肢があるよ、と。でも彼女にはそれが世界です。エロティックな場面がどうにも煮え切らないのも、ニナの主観としては正しい選択でしょう。ヴァンサン・カッセル演じる舞台監督も、ミラ・クニス演じるニナのライバルも、距離を置いてみればきわめて表面的ですし、母親でさえ類型的以上の意味を持っていないように見えます。
一方でポートマンの演技は最初から最後まで全開です(「こういうのが見たかったんでしょ?」くらいの開き直りがありそうです)。ニナに感情移入して映画を見たら、最初から最後までジェットコースターのごとき感情の上下動を味わえることでしょう。またしてもこう言われているかのようです。映画はそもそも嘘だが、そこで演じられる心情が本物だと感じられればいい。

…とここまで書いた上で、『レスラー』と『ブラック・スワン』のいちばん重要な違いはというと、『ブラック・スワン』は最初から「歪んだ主観」の話であることを表に出したホラーだ、という点ですね。『レスラー』ではどうしても気になってしまったディテールの甘さですが、ホラーであれば一切気にする必要はありません。すごくクレバーな選択だと思います。
しかし何でブラック・スワンにしたんでしょうね。山岸涼子でも読んじゃいましたかね。


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