主観性
2011-05-27


二年ほど前でしたか、『レスラー』という映画がありました。どん底まで落ちぶれたかつての人気俳優ミッキー・ロークが、落ちぶれたかつての人気レスラーを演じる映画で、俳優本人のイメージとぴったり重なるキャスティングと、『レクイエム・フォー・ドリーム』で名前を売ったダーレン・アロノフスキーがまさかプロレスを題材に映画を撮るとは、という驚きで話題になりました。
しかし今回の『ブラック・スワン』を見るにつけ、アロノフスキーはこの方向に照準を合わせたように見受けられます。誤解を恐れずに言うならばキャスティング一発ネタ。『レスラー』と『ブラック・スワン』はよく似ています。

アロノフスキーの映画では、常に、主人公の主観に焦点が当たっています。カメラがぐらぐら揺れる系。で、物語的には、外部がほとんど出てきません。
『レスラー』を見てみます。もしこれが、「落ちぶれたレスラーの悲惨な生活とほんのわずかな救い」を語る映画だとしたら、絶対に外すべきではないだろうと思うポイントが二点あります。突然の心臓発作で倒れた後に、医療費で困るシーンがほしかったというのがひとつ。入院シーンで、80年代ヘビメタもかくやな長い金髪を切るべきだったのでは、というのがもう一点です。
心臓発作は『レスラー』の転換点となるポイントなんですが、ものすごーくあっさりしています。入院シーンは申し訳程度で、どのくらいの時間が経過したのかもわからない。『レスラー』の主人公ランディが暮らす世界の完璧な外部であるような医者も看護婦もその他の入院患者も、遠景にすぎません。彼らはおそらく、ランディを「落ちぶれたかつての人気レスラー」でも何でもなく「落ちぶれた暮らしを送るよくいる中年」としてしか扱わないでしょうが、そういう外部の世界が描かれることはありません。
「落ちぶれたレスラーの悲惨な生活とほんのわずかな救い」を扱う映画だとしたら、「なんかテキトーで現実感がないなあ」という感想を持ったことでしょう。でも『レスラー』は「落ちぶれたレスラーの心情」を扱う映画です。だから外部の世界の描写は問題にならない。どれだけの時間が経過し、どれだけの金銭的な代償があり、彼は社会的にどういう位置づけのどういう人なのか、は観客が最低限わかればいい。
誰だったか忘れましたが、『レスラー』について「プロレスは演出されるものであり八百長かもしれないが、レスラーの痛みは本物だ」というようなコメントを出していました。物語でなく、映画自体がそう言っているかのようです。悲惨な生活は演出だし、物語に穴もあるかもしれないが、そこで演じられる心情は本物だ。

『ブラック・スワン』で、美しく臆病で繊細なあまり狂気の淵を覗きこんでしまうバレリーナを演じるのはナタリー・ポートマンです。美しく気高く聡明で、しかし顔立ちにどこか幼いイメージのあるポートマンは、かつてのジョディ・フォスターみたいなポジションにありますが、『クローサー』ではストリッパー役を演じてみたりと世間の固定的なイメージから逃れたいようにも見えました。しかし『ブラック・スワン』のニナ役はぴったりのキャスティングで、世間がポートマンに持っているイメージを思いきり具現化したかのようです。


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